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第3回 近代日本の対朝鮮外交 (その2)

  • 2005/04/23(土) 01:13:50

 それでは次に李朝朝鮮王国の内情はどうであったかをみてみよう。

 朝鮮の最高権力者は言うまでも無く、朝鮮国王である。

しかし、実際の政務一般は両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級から試験で選抜された、科挙官僚が担っていた。 この科挙官僚に中央・地方の官職が割り当てられ、行政を担った。 

この両班貴族こそ朝鮮の支配階級の主力である。

科挙試験の内、高級官僚への道である文科に合格して政府の要職につくのは、事実上両班貴族、それもそれなりの家柄のものにしか許されなかったので、中央・地方の要職は両班貴族にほぼ独占された。

 科挙試験の武科に合格したものは武人階級となったが、文官よりも地位は軽んじられた。 その下に中人と呼ばれる技術官僚などの下級支配層がおり、実務を支えた。

 そして農業・商工業に従事する平民層を常民といった。常民のほとんどを占めるのは農民である。 ここまでがいわゆる自由民であるが、李朝朝鮮には、さらにその下に奴隷階級が存在した。

 奴隷階級は国家に所有される官奴婢と、貴族などに所有される私奴婢とに分かれる。 さらに被差別民として白丁と呼ばれる人々が存在した。

このように李朝は厳然とした身分差別に基づく社会であり、それは日本の明治時代の中ごろまで続いた。

(在日韓国・朝鮮人の人々は差別されている気の毒な人達だから、他人を差別することがあるはずないというイメージでもあるのか、李朝朝鮮に厳しい身分差別があったことにびっくりする日本人も少なくない)

 朝鮮王朝を支える土地・租税制度は、前者は科田法、後者は租庸調制である。

科田法とは、官僚などの自由民に国家が田を与え、その人が死ねば田を国家に返還する制度である。

租庸調制は、田畑からの収穫物を税として収める租、国のために決められた日数の強制労役につく庸、地方の特産品を納める調とからなる、税制である。

しかし16世紀から両班貴族による大土地所有が進んで科田法の実施が困難になり、逃亡農民が続出するようになると、租庸調制もあまりうまく機能しなくなった。 そして広大な土地を所有した貴族はさまざまな名目で農民から租税を徴収するようになった。
 
 経済面をみると、李朝は儒教に基づく極端な重農主義をとったために、また支配層が苛酷な税の取り立てや収奪を行ったために、商工業の発達が阻害された。

朝鮮の多くの地域では自給自足経済が普通であり、手工業も両班貴族のための陶磁器・文房具などをつくる官営工房が維持される程度で、民間の手工業者の活動は細々としたものだった。

このため商品経済の発達は限られ一部の都市を除くと、商業活動は褓負商と呼ばれる旅の行商人が主役であり、褓負商がいくばくかの余剰生産物を持ちよって何日かに一回開かれる市が、それぞれの町にとっての唯一の商業・交易のチャンスであった。

このため貨幣の流通も限定的であった。

明治初期の朝鮮では常平通宝と呼ばれる銅銭が使用されたが、流通していたのは漢城(ソウル)など都市部が主で、しかもソウルの貨幣が元山などの他の都市では使えないといった状況であり、そのため朝鮮全体では、まだまだ米や布を仲立ちとした物々交換経済が主流であった。

これが明治初期における、朝鮮半島の実態だったのである。

(韓国の歴史教科書では、李朝後期に商品経済の確立と貨幣の全国的な普及が述べられているが、

逆に当時の朝鮮にいた外国人の記録(朝鮮事情[シャルル・ダレ著]・ 朝鮮紀行[イザベラ・バード著])には貧弱な商品経済と、葉銭という価値が極めて低く、大量の所持が必要なために持ち運びが不便で、しかも都市部以外では流通しない貨幣の存在が記されている。

そういった証言から判断すれば、韓国の歴史教科書の記述はかなり誇張されたものといえる)

(以上、李朝朝鮮社会をざっと見てきたがどういった感想をお持ちだろうか? ぜひあなたの高校時代の日本史や世界史の教科書を引っ張り出してきて読み比べてほしいが、
 
科挙官僚による中央集権制度、吏・戸・礼・兵・刑・工の六曹制、所有者が死んだら田畑を国家に返却する科田法、租庸調制、国家や貴族による奴隷所有など、これらは中国の隋・唐の時代、6~7世紀に完成した古代奴隷制国家的な、律令国家の制度の特徴そのものである。

もちろん李朝は隋・唐の時代から千年以上たっているのだから、いくぶんか進歩した部分はあったのだろうが、社会の基本システムはそれほど違っていない。

 20世紀初めの時点で、産業革命を達成して近代市民社会に到達していたのは、文明の衝突で有名なハンチントンの分類にしたがえば(西欧・スラブ・ラテン文明を含めた)欧米キリスト教文明日本文明だけであった。

そして両文明だけが、狭義の封建制度を経験している。

クロフネは、厳しい競争社会であり分権的政治体制としての封建制度を経験した文明だけが、19世紀までに近代市民社会に到達できたのではなかったかと考えている。

西欧文明では封建制度のもとで貨幣経済が発達し、支配層をはるかに上回る富を蓄えた資本家が誕生、封建制度の最終段階ともいえる絶対王制にすすんだ。

つづいて社会的に力をつけた市民階級が、政治的権利を獲得して社会発展の主力の地位を築き、近代市民社会に到達した。

 一方鎌倉時代以降、封建制度が発達し、室町・戦国期に貨幣経済が進展して社会が加速度的に発展した日本は、江戸時代にその成熟期を迎えた。

しかし、中央(幕府)による統制がやや強まり、戦国期にあった地域間の社会発展の競争はゆるくなった。

また鎖国によって外国との交流も限定され社会発展のスピードはさらに落ちた。だから近代市民社会までは進むことができなかったのではないだろうか。

 しかし、突然西欧から近代化の波がやって来ても、日本文明は近代市民社会の前段階である封建制社会までは到達していた。 つまり近代文明受け入れの準備が整っていたので、比較的スムースに”文明開化”が達成されたのではないだろうか。

中国や韓国では、「日本がアジアで初めて近代化を達成したのは、運が良かっただけの偶然である」といった意見も耳にするが、アジアでほぼ唯一、成熟した封建制度を経験した日本文明だけが明治維新を達成し、近代市民社会に到達できたのは歴史の必然だと思われる。

逆から言えば、封建制度が未発達な中国を中心とした儒教文明が、西欧近代文明を取り入れて消化不良をおこしてしまったのも歴史の必然と思われる。

 その意味で言えば、20世紀の直前まで封建制度を経験せず、きびしい鎖国で古代律令制国家が純粋培養・無菌保存されてしまったような”隠者の国”・李朝朝鮮に、自力で近代市民社会に到達できるようなきざし、萌芽といったものはみられなかったし、

たとえ、そのようなものがあったとしても、朝鮮が近代化を達成して独立を維持できるような強国になるまで、欧米帝国主義列強が指をくわえて待っていてくれるといった事はありえなかった。

また、朝鮮はかたくなに鎖国を維持して、西欧から近代文明を学んで取り入れようなどという考えはさらさら無かったことも前回述べたとおりである。)

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