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第7回 近代日本の対朝鮮外交 (その6)

  • 2005/05/10(火) 21:37:35

 壬午軍乱と甲申事変の失敗で、政治・経済改革のチャンスをつぶされ、停滞をつづける李朝朝鮮。

ロシアやイギリスなど帝国主義列強の朝鮮半島に対する影響力も日増しに強まっていた。

 朝鮮の改革がいきづまりをみせるなか、閔妃と事大党政権による搾取圧政と貧困、開国に伴う外国商人との競争の敗北を原因として民衆は不満を爆発させた。

彼らは東学という新興宗教の指導者、全(王+奉)準らにひきいられ、1894年(明治27年)国政改革を要求して大反乱をおこした。

これを甲午農民戦争あるいは東学党の乱という。

東学党による民衆蜂起を独力で鎮圧する力のなかった閔妃と事大党政権は清に援軍を要請したが、これに呼応して日本も朝鮮に出兵し、

両国は半島を舞台に、朝鮮の地位(独立国を主張する日本と、あくまでも自分の属国であると主張する清)や政治改革の方針の食い違いから対立を深めていった。

 日本はついに実力で清の朝鮮に対する影響力を排除する決断を下し、同年8月清に対し宣戦を布告して日清戦争が開始された。

陸海軍の近代化を徹底してすすめていた日本に対し、”中体西用論”をかかげ中途半端な改革にとどまった清軍は、陸・海で敗退をつづけた。

(規律の無い清軍は朝鮮への行軍の途中、奉天<現・瀋陽>や遼陽といった自国内の都市でさえ略奪のかぎりをつくした。これでは勝てる戦争も勝てまい)

旅順要塞につづき、威海衛も陥落し、日本軍によって北京のノド元にナイフをつきつけられる形となった清は降伏。 1895年(明治28年)4月17日、下関で講和条約が結ばれた。

(両国にとって日清戦争の目的は大きく異なっていた。 

このころ、清は”属国”・”朝貢国”を欧米列強に次々と奪われていた。 

1876年にコーカンド・ハン国が併合されたのを最後に西トルキスタンをロシアに制圧され、1885年に清仏戦争に敗れてベトナムの宗主権を失い、1886年までの3度に及ぶ戦争でイギリスがビルマを手中にした。

清にとって日清戦争とは、約250年続いてきた属国・朝鮮に対する宗主権を守るための戦争であり、それは同時に”ナマイキな蛮族”である日本人を叩きのめし、二千年以上続いた”華夷秩序”を守るための戦いであった。朝鮮はその最後の牙城ともいえるものだったのだ。

そのために、清は朝鮮の近代化自体には関心が低く、むしろ清自身が近代化失敗のため欧米列強に独立を脅かされているありさまだった。

清の朝鮮支配がそのまま続いていれば、欧米による侵略で共倒れの可能性が高かったといえよう。

中国の国定歴史教科書は日清戦争を『日本の中国に対する侵略戦争』と決めつけているが、ウソもいいところで、

日清戦争の時代背景をろくに説明もせずに、いきなり中国艦隊を日本側が攻撃したところから子供達に教える中国の歴史教育のやり方は、卑怯千万である。

 一方、日本にとってこの戦争の目的は、清の朝鮮に対する影響力を排除して、その意思も能力も無い朝鮮に代わって日本が主導権を握って朝鮮半島の近代化と独立保持を達成し、欧米列強<特にロシア>から日本の独立を守るために半島を緩衝地帯とすることであった。

中国政府は「1950年の朝鮮戦争は、アメリカの中国に対する侵略戦争である」と子供達に教えているが、その根拠は「中国の緩衝地帯である北朝鮮がアメリカに脅かされたため」としている。

その論理で戦争が正当化できるならば、中国は日清戦争における日本を批判できまい。中国お得意のダブルスタンダードである)

 この”下関条約”では、1.朝鮮の清からの独立 2.清は賠償として2億両を日本へ支払うこと(当時の日本円に換算して3億1千万円) 3.遼東半島と台湾などを日本へ割譲すること などが定められた。

 しかし遼東半島の利権を狙っていたロシアがドイツ・フランスをさそって同半島の返還を日本に迫った。(三国干渉)

「列強三カ国を敵にまわしては勝ち目が無い」とみた日本は、遼東半島を清に返還したが、すぐさまロシアが同半島を租借し、日本国民の間に激しい反露感情がわきあがった。

 清の影響力が半島から排除された日清戦争中の1895年1月、さっそく駐朝鮮公使・井上馨の主導により朝鮮の内政・外交改革が着手された。

改革案は、朝鮮は公式に清からの独立を宣言すること、官僚の腐敗をとりしまり、奴隷制度を廃止して公正な社会をつくること、国王や王妃が国政に介入するのを禁止し、議会(中枢院)を設置して近代的な立憲君主制を目指す第一歩とすることなどを骨子としていた。

しかし国王・高宗は特権が奪われることを嫌って、仮病を使って公務を休み、改革を事実上拒否した。

それでも井上は嫌がる高宗に、朝鮮歴代国王の宗廟前で朝鮮の独立と内政改革を誓うよう断固要求し、ついに高宗は北漢山の宗廟前で、王族と百官をしたがえて、朝鮮の改革をうたった国政改革のための”洪範14ヶ条”の実施を誓った。 これを乙未改革という。

(韓国の歴史教科書では乙未改革は、朝鮮が自力で行ったように記述されているが、まったくのウソである。

朝鮮が自力でなしとげられなかった中国からの独立、官僚腐敗の撲滅、奴隷制度の廃止などが日本によって達成されたのが、よほどくやしいのだろうか。

また高宗が宗廟前で百官をしたがえて国政改革を誓うというのは、明治天皇が百官をしたがえて神々に近代日本の施政方針を誓った、五箇条の御誓文と同じ形式である。

このような日本の朝鮮内政への介入を、韓国側は本格的な植民地化・日韓併合の第一歩と主張しているが、これも根拠が無い。

植民地統治成功の原則は、現地社会を未開のままにしてほうっておく愚民化政策である。

しかし日本のやろうとしたことは全く逆で、奴隷を開放して身分差別を撤廃し、朝鮮を近代的な立憲君主国にしようとする試みだった。)

 この改革によって日本に亡命していた、かつての独立党の指導者の一人、朴泳孝が内相として朝鮮政府に復帰した。

しかし、改革派の朴泳孝と守旧派の高宗・閔妃とが激しく対立し、朴泳孝は日本に再亡命を余儀なくされた。 これによって朝鮮政府から改革派がつぎつぎと追放され、閔妃派を中心とする守旧派が返り咲いた。

この反改革の動きは、ロシアの三国干渉に屈した日本をみた高宗・閔妃が「日本など恐れる必要無し」とばかりに見下し、ロシアに接近する動きを見せたことも背景となっていた。

日本側は専制君主であった朝鮮国王から立法権や財政をかたむかせている王室費をとりあげようとしたが、高宗・閔妃はあくまでも特権の維持に固執した。 そのために改革はまたしても挫折したのである。

このとき死傷者13000人以上、戦費2億円以上(当時の国家予算2年分)という日清戦争で費やした日本の血の犠牲が、まったくの水の泡となりつつあったのである

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