プロローグ・あなた自身を責めないで
- 2008/07/04(金) 15:00:57
あなたがまだ子供だったころ、この国の歴史をはじめて知ったとき、ショックを受けたことがありませんか?
「自分の国が”侵略国”だった」
「自分は”侵略国の悪い人間”として生まれてしまった」
この国の歴史を知って、あなたは大きく動揺し、深く傷ついた経験がないでしょうか。
もしそうなら日本人のあなたに質問します。
「あなたは侵略戦争に賛成して、兵隊として侵略戦争に参加したことがありますか?」
「その時に外国人を殺したことがありますか?」
もしその答えが「いいえ」であるならば、過去の歴史のせいで自分自身を責めないでください。自分で自分を傷つけないでください。
人は自分がやってしまった間違い、その時に防ぐことができたかもしれない間違いについてのみ、反省したり後悔したり自責の念にかられたりすることが許されるのです。
それでも、あなたが生まれる前のできごとについてあなたを激しく責め、あなたを傷つけ、反省を求めてくる人たちがいるかもしれません。
あなたが侵略戦争を防ぐことができたのに防がなかったのであれば、責められてもしょうがないのかもしれません。
しかし世界の誰も、自分が生まれる前のできごとが起こるのを防ぐことはできません。
だから、世界の誰もできないことをできなかったからといって、自分を責める必要はありませんし、世界の誰もそのことであなたを責める資格はないのです。
だから、過去の歴史のせいで決して自分自身を責めないでください。傷つけないでください。
ところが不幸なことに、これまでほんとうに多くの日本人が、そうする必要も義務もないのに自分自身を責め続けてきました。
「自分の国が”侵略国”だった」「自分は”侵略国の悪い人間”として生まれてしまった」ということに驚き、動揺し、傷ついて、「なんとかしなければいけない」と必死にもがいた結果、ついに悲しい悲しい行動をとる人たちがでてしまいました。
その人たちは、自分の国の悪口を外国に大声で言いふらすことで、自分が”侵略国の悪い人間”ではない、”侵略国の悪い人間”とは無関係であることを必死になって証明しようとしたのです。
ほんとうにあったことを「あった」と言うのは当然です。
しかし、その人たちは日本の悪口をたくさん言えば言うほど、その悪口がひどいものであればあるほど自分が”侵略国の悪い人間”ではない、”侵略国の悪い人間”とは関係無い人間であることが証明されるとかたく信じこんでしまい、あったかなかったかハッキリしないことまで全部あったことにして、外国に向かって大声で日本の悪口を言い続けています。
もっとひどい場合には、無かったことをあったことにするウソをついてまで自分の国の悪口をいう人もいます。
たぶん、自分が”侵略国の悪い人間”ではない、”侵略国の悪い人間”とは関係無い人間であることを証明するには、そうするのが一番効果があると考えているのでしょう。
なぜなら一番ひどい悪口は、無かったことをあったことにするウソなのですから。
でも良く考えてみてください。
あなたの大切な友達やお父さん・お母さん・兄弟姉妹が住む日本の悪口を外国に向かって大声で言いふらし、あなたの知らないどこかの日本人に
”侵略国の悪い人間”の罪をなすりつけて「自分だけ助かろう」とするなんて、これほど悲しい言葉の使い方はありませんし、これほどずるくて汚い生き方もありません。
そもそも、過去の歴史のせいであなた自身を責める必要は無いのです。
だから、人としてそんな悲しいこと、ずるいことは決してしないでください。
知らないどこかの日本の人に、不幸のボールをパスするようなことはやめてください。
もしそんな悲しいこと・ずるいことを言う人がいても決して耳をかたむけないでください。
そしてもっともっと自分自身を好きになってください。
世界のどこにも完璧で絶対に失敗しない人なんていません。
自分で自分を嫌っている人を、自分で自分の悪口を言う人を、どうして他の人が好きになってくれるでしょうか?
自分を好きになることができたらそれと同じくらい、こんどはあなたの大切な友達やお父さん・お母さん・兄弟姉妹、みんなが住む街やまわりの自然を好きになってください。大切にしてください。
それと同じくらいこの日本を好きになってあげてください。
ここまで読んできたら、あなたの心の奥に深く深く刺さっていたトゲは、すっかり消えてなくなっているはずです。
心の傷がすっかりなおったあなたは、まわりの世界がこれまで見えていたものとは、まったく違っていることに気づくのではないでしょうか。
もし、あなたのまわりに同じ心の傷をかかえている人がいたら、悲しい悲しいことを言う人がいたら、過去の歴史のことで自分自身を責めないで、自分自身を傷つけないで、と言ってあげてください。
この文章を使って、心の奥に深く深く突き刺さったトゲを抜いてあげてください。
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第12回 低信頼社会と、うまくつきあうために
- 2006/03/25(土) 01:07:22
前回の続き
それでは我々日本人がトラブルに巻き込まれないようにするためには、低信頼社会の人達と、どう付き合っていったらよいのでしょうか?
いくつかの方法が考えられるかと思いますが、こういう風に考える人もいると思います。
つまり、「低信頼社会の人達は”よそ者”に対しては平気でウソをついたり裏切ったりするけれども、血のつながった一族や同じ地方出身の知り合いといった、コネを持つ人々同士からなるグループの内側では、固い結束を守りながら助け合って生きている。 だから日本人も低信頼社会の人達と、とことん仲良くして、そうした”コネグループ”に入れてもらえば良い。そうすれば低信頼社会の人達から、だまされたり裏切られたりせずに済む」と。
クロフネはこの考えには賛成できません。
確かに国としての日本や日本人が、低信頼社会の人達がつくったコネグループに接近して、そのメンバーに入れてもらうことは可能かもしれません。
しかし、あるコネグループに入るということは、そのグループのメンバーから全面的なバックアップが受けられる代わりに、こちらもグループ内のすべてのメンバーに、無条件で全面的な支持を与えなければならないことを意味します。
コネグループのメンバーの一人が凶悪犯罪をおかした場合でも、そのグループに属している他のメンバーは、その凶悪犯をかばってやらなければならないのです。
たとえば低信頼社会の韓国と北朝鮮は、血のつながった同じ民族という意味で同じコネグループに属します。
北朝鮮が外国人拉致や核ミサイル開発、麻薬やニセ札の密造、国民への人権弾圧といった国際的な凶悪犯罪をいくら繰り返しても、近年、北への同朋意識が高まっている韓国が、北朝鮮の凶悪犯罪を見逃し、国際社会からの批判から北朝鮮をかばい続けているのは、そうした理由からです。
しかし、日本が北朝鮮のこうした犯罪を黙って見過ごし、かばってやることなど出来るはずがありません。 国際社会から「日本も北朝鮮のような犯罪者と同類か」と思われて、信用がた落ちです。
もしそこで、凶悪犯・北朝鮮を日本がかばってやらなければ、たとえ韓国・北朝鮮グループにそれまで多額の金銭などを貢いでいたとしても、「もうお前は、仲間でも友達でもない。出ていけ!」と韓国に言われることでしょう。
「相手に裏切られないように同じコネグループに入れてもらう」という戦略は、ここで破綻です。
低信頼社会というものは、人間社会に欠かせない、法のもとの平等や人権の尊重といったものが充分整備されていないという意味で、より原始的な社会といえます。
百年・二百年と時間はかかるかもしれませんが、こうした古いタイプの社会はいつかは消滅すべきです。
ですから、特に国としての日本が低信頼社会の、あるコネグループに入れてもらうために、一生懸命貢いで、犯罪者もかばってやって、恩を売るのに必死になるような事には私は反対なのです。
私は、日本人が外国人と付き合う場合、「自分がこうだから相手もそうだろう」と考えて、誰でも同じやり方で付き合うのではなく、相手が高信頼社会の人間か低信頼社会の人間かで、付き合い方のスイッチを切り替える方がよいと思います。
相手が約束を良く守る、信頼できる人と確認できれば、普段と同じように付き合っても問題ないと思いますが、
相手が、ワケも無くひんぱんに裏切り行為を繰り返すような、典型的な低信頼社会型の人間なら、付き合い方を変える必要があるでしょう。
ここで日本人にありがちな失敗は、「自分がこうだから相手もそうだろう」という考え方からどうしても抜けきれず、低信頼社会型の人間による裏切り行為などの問題行動を黙って見逃して、「日本人がそうやって大人の態度を見せれば、彼らもそれをみて冷静に反省して、いつかは問題行動をやめるだろう」と考えてしまうことです。
しかし、問題行動を黙って見逃すことを「大人のとる立派な態度」と考えるのは日本人だけの論理であって、「だました方よりだまされる方が悪い」と考えがちな低信頼社会の人達の多くはそうは考えませんし、日本人のそうした行動に恐れ入って、自らの問題行動を反省して止めるということもまず無いでしょう。
それではどうすれば良いか、シンガポールのやり方から学んでみたいと思います。
シンガポールは多民族国家ですが、実態は「華人が華人を統治する国」といって良いでしょう。
しかし、もともとは低信頼社会出身の華人の国でありながら、シンガポールは汚職や犯罪の少なさで有名です。 その秘訣は「疑わしきは罰する」という徹底した厳罰主義です。
さすがにシンガポール政府の華人は自らが低信頼社会出身の人間であるだけに、同じ華人というものを知り尽くしています。 そもそも、華人を中心とする国民の良心とか思いやり・道徳心といったものに、これっぽっちの期待も信頼も置いていません。
シンガポール政府の考え方は「人はもともと悪なり」の性悪説が大前提となっていますが、「自分さえ良ければ」と考えがちな低信頼社会の人達に対しては適切なやり方だと思います。
「人はもともと善だから、問題行動を黙って見逃して大人の態度を見せれば、彼らもそれをみて冷静に反省して、いつかは問題行動をやめるだろう」という性善説に立った、日本人の考え方と
対極にあると言ってよいでしょう。
拳銃を発射したり大麻の大量所持といった重い犯罪は、死刑。
公共施設への落書きはムチ打ち刑。
ゴミのポイ捨てや道路へのツバ吐き、禁止区域での喫煙といった軽度のマナー違反でも日本円で7万以上の罰金となります。
そしてバス乗り場は、行列へのズルい割り込みが出来ないように柵で囲まれています。 それでもシンガポール国民による割り込みが後をたたないようですが。
このようにシンガポールでは、例え軽犯罪であっても問題行動を起こす人に対して、罰金やムチ打ちといった厳罰主義でのぞみます。
拝金主義の傾向が強い華人にとって、お金を失う事は何より嫌なことです。
そして軽犯罪でも見過ごさないという強い姿勢が、汚職や凶悪犯罪といった重い犯罪の発生を防ぐのです。
こうしてシンガポールでは、政府が力ずくで問題行動をやめさせ社会のルールを国民に守らせようとしていますし、その効果も実証ずみです。
日本人も、相手が信頼できる人なら別としても、たいした理由も無くウソや裏切りをひんぱんに繰り返すような低信頼社会の人達の問題行動に対しては、スイッチを切り替える必要があります。
つまり相手の良心や思いやり・道徳心に期待して、彼らの問題行動が自然とおさまるのを待つのではなく、彼らが一番嫌がる罰を与えることで、たとえ力ずくでも相手の問題行動を止めさせる事が、必要不可欠なのです。
これは国対国の付き合い方にも適応できます。
一国の外交のやり方には、その国の民族性がはっきりとあらわれるからです。
日本も外交をするときは、欧米諸国のような高信頼社会とアジアのような低信頼社会の国々とで、やり方が全く同じで良いはずがありません。
ましてや日本人同士でしか通用しない付き合い方を、外国に適用するなど論外です。
しかし、今、日本がかかえている深刻な外交トラブルのほとんどが、低信頼社会である韓国・北朝鮮・中国・ロシアとの間で発生していることからもわかるように、どこの国とも同じように外交をしてしまったことが、戦後の日本外交の大失敗の原因だったのです。
「自分たちがこうだから相手も絶対そうだろう」は、外国人との付き合いや外交をする上で大きな間違いのもとですが、日本の場合、外交のプロたる外交官でもなかなかこれに気がつけないようです。
国際社会で日本人ほど、相手によって付き合い方のスイッチを切り替えることが必要とされる人達もいないと思います。
すべての日本国民が”切り替えスイッチ”を持つのは無理かもしれませんが、少なくとも日本外交の表舞台に立つ政治家や外交官の全員に、スイッチを持って欲しいと思いますし、スイッチを持たない人にその資格は無いと思います。
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第11回 高信頼社会の弱点
- 2006/03/14(火) 23:58:31
前回は、日本が高信頼社会であること、そのことによって日本人が大きな恩恵を受けてきたことをお話しました。
では、日本人が高信頼社会で暮らしてきたことについてのマイナス面とは、いったい何でしょうか。
もうお気づきになっている方もおられるかと思いますが、それは、平気で他人をだましたり裏切ったりするような人達に対して、日本人は決定的に弱いということです。
高信頼社会では例え知らない人でも「たいした理由も無く、他人がこちらをだましたり裏切ったりはしない」ということが暗黙の了解になっており、人間関係の大前提にもなっています。
いちいち相手を疑う必要がないので、商売をはじめとする様々な人間関係がスムースにいき、そのことの利点を社会の多くの人が理解しているために、あえてそれを壊そうという人も少ないのです。
もしあえて他人をだましたり裏切ったりする人が出てくれば、法によって公平に処罰されます。
しかし、世界は高信頼社会だけで成り立っているわけではありません。
むしろ前々回でとりあげた低信頼社会の方が、高信頼社会よりも圧倒的に広く人口も大きいのです。
「よそ者はこちらをだまそうと常に狙っている」ということが低信頼社会における人間関係の大前提であり、「だからよそ者は警戒しなければならないし、チャンスがあれば相手をだましたり裏切ったりするのも当然だ。 だました方よりだまされる方が悪い。」と考え、他人にきりが無いほどの不信感を抱いているのが低信頼社会の人達です。
そうした低信頼社会の人達に対して、高信頼社会にどっぷりとつかってきた日本人が「自分たちがこうだから相手もそうだろう」と考えて付き合ってしまったらどうなるでしょうか?
日本人が「こちらは相手を裏切らないのだから、相手がワケも無くこちらにウソを言ったり裏切ったりもしないだろう」と考えて低信頼社会の人達と付き合ったらどうなってしまうでしょうか?
当然、多くのトラブルが発生することが予想されます。
しかも、ウソにだまされ裏切られて手ひどい損害をこうむるのは、常に高信頼社会に住む日本人の方でしょう。
実際、竹島の強奪、日本人拉致・殺害、東シナ海の海底資源略奪、中立条約違反と北方領土の占領など、戦後日本がかかえている深刻な外交トラブルのほとんどが、低信頼社会である韓国・北朝鮮・中国・ロシアとの間で発生しています。
それも被害をこうむっているのは、一方的に日本の方です。
逆に、同じ高信頼社会であるアメリカや欧州諸国と日本とでは、そのような深刻なトラブルは発生していません。
また「信用第一」よりも「だました者勝ち」の低信頼社会では、交渉術が高度に発達します。
低信頼社会における商売の交渉というものは、「良い品をいかに安く買うか」という買い手と「たとえ粗悪な品でもいかに高く売りつけるか」という売り手の、一種のだましあいです。
こうしたことが当たり前になっている社会から、えりすぐりの外交官が育ってくるのです。
しかし高信頼社会の日本では、お金さえ持っていれば全ての人に平等に、ほぼ同じ品質の商品が同じ値段で提供されます。
買い手は欲しい商品の値札を見て、その金額の通りのお金を黙って支払うだけです。
そこには交渉のカケラもありませんし、こうした社会からタフ・ネゴシエーター(手ごわい交渉者)の外交官が自然と育ってくるということは、まず有り得ません。
外交交渉の場において、日本の外交官が韓・中・朝・露といった低信頼社会出身の外交官に、これでもかというぐらいに不利な条件を飲まされ、だまされたり損失をこうむったことにさえ気がつかないのもそうした理由からです。
人間というのは多くの場合、「自分がこうだから、他人もそうだろう」と考えがちです。
低信頼社会の人達は「自分が他人を裏切るのだから、他人だって自分を裏切るだろう」と考え、外国人を含む”よそ者”に裏切られないよう、常に警戒しています。
高信頼社会のアメリカや欧州の人達は、戦争・植民地統治・移民の受け入れ等で、長いこと低信頼社会の人達を含む外国人と、身近に付き合ってきました。
そうした経験から、彼らは最低限どうやれば、トラブルに巻き込まれること無く低信頼社会の人達を含む外国人と付き合っていけるかを、感覚的に知っているのです。
しかし同じ高信頼社会の人間であっても、島国という地理的条件と江戸時代までの鎖国政策という歴史的理由によって、低信頼社会の人達を含む外国人と付きあう経験の少なかった日本人の場合は、そうではありませんでした。
ですから、低信頼社会の人達が「自分がこうだから、他人もそうだろう」と考えても損をしないでしょうが(むしろトラブルの原因となりがち)、
高信頼社会にどっぷりとつかってきて、しかも外国人との付き合いの経験が少ない日本人だけは「自分がこうだから、他人もそうだろう」と考えてはいけないのです。
それでは我々日本人がトラブルに巻き込まれないようにするためには、低信頼社会の人達とどう付き合っていったらよいのでしょうか?
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第10回 日本・アジアで稀有な高信頼社会
- 2006/02/14(火) 00:20:43
それでは日本はどういった社会だったのでしょうか?
オレオレ詐欺やマンション耐震強度偽装事件などで、最近ではだいぶ怪しくなってきましたが、日本はアジアでは珍しい高信頼社会でした。
日本では「武士に二言は無い」などと言ったりしますが、たとえ言葉を交わしただけの約束でも、それを守らなければならないという文化がありました。
証文や血判状のように文書に残した約束なら、なおさらよく守られたことでしょう。
江戸時代の商売は”盆暮勘定”といって、年二回もしくは一回の後払いの決済、いわゆる掛売り販売が広く普及していて、暮れになるとその年の”ツケ”を回収するために、大晦日の深夜まで商人・職人による取り立てが続きました。
商人(あきんど)の町、大阪の堂島では17世紀末に米の売買市場である”堂島米会所”が開設されましたが、1716年ごろには、帳簿上の差し引き計算によって取引の決済を行う”帳合米取引”を開始し、堂島米会所が世界初の証券・先物市場であると言われています。
世界最先端と言われるシカゴの商品取引所でも、「自分たちのルーツは堂島米会所である」と見学者に説明しているとのことです。
このように、近代以前の日本で売掛け販売や先物取引が発達したのも、「たいていの売掛金(ツケ)が約束どおり問題無く回収できる」「先物取引が契約どおり成立する」という、高い信用と信頼関係が日本人同士にあったからでしょう。
前にも言ったとおり、低信頼社会では借金の踏み倒しの危険性が高いので、現物現金取引が好まれ、その社会で掛け販売や先物取引を高度に発達させるのは困難です。
よく日本の田舎に、野菜と貯金箱を並べて、「野菜はどれでも一個百円です。代金は貯金箱へ入れてください。」と書かれた張り紙がしてある、無人の野菜販売所をみかけます。
しかし、これも高信頼社会の日本だから成り立つやり方のはずで、低信頼社会では、並べておいた野菜がひとつ残らず無くなっても貯金箱に一円も入っていない、といったことになりかねません。
それでは何故、日本がアジアでは極めて珍しい高信頼社会を持つ国となったのでしょうか?
民俗学者ではないので、はっきりとしたことはわかりませんが、二つ思い当たる理由があります。
一つ目は、言霊信仰の存在です。
言霊信仰というのは、言葉には霊力があって現実世界に影響を与えることができ、しゃべった内容は本当に実現するという考え方です。
言霊信仰の歴史は非常に古く、日本人の生活に強い影響を与えてきました。
例えば、古代の日本女性は親兄弟以外の他人に本名を明かすことはありませんでした。
他人に本名を教えることがあるとすれば、それは結婚する相手にだけです。
何故なら、「○○さんと結婚します。」と好きでもない相手に宣言されてしまうと困るからです。
つまり、むやみやたらに他人に本名を教えてしまうと、言霊の力によって、好きでもない人と結婚しなければならなくなると信じられていたのです。
おかげで、有名人でも本名がいまだにわかっていない人が結構います。(紫式部や清少納言など)
読者の皆さんも一度くらいは「縁起の悪いことを言うんじゃない」と言われた事があるのではないでしょうか? これも現代に残っている言霊信仰です。
「縁起の悪いことを言うと本当にそうなってしまうから、そんな事は言うな」というわけです。
このように日本人は言葉というものを非常に大切にあつかい、時にはおそれてきました。 当然、言葉を交わしただけの約束でも大切にし、約束を破ることをおそれてきました。
ですから日本人は、軽はずみに「滅多なこと言うもんじゃない」し、一度口にした約束は大切に守らなければならず、「武士に二言は無い」と考えたのではないでしょうか。
二つ目は、日本人が長いこと島国という閉鎖空間に定住して生活し、農業や商売をやってきたということです。
こういう社会では、「信用こそ命」です。
他人だからといって、商売などでウソをついて損をさせたり裏切ったりすれば、狭い世間にたちまち悪い評判が広まって、その人は信用を失います。
そうなると誰も相手にしてくれなくなりますが、居づらくなったからといっても周りは海ですから、日本から出ていくということは簡単なことではありません。
ですから、ウソを言わず人を裏切らず、正直に誠実に「信用第一」で暮らしていくことが、幸せに直結するのです。
また、島国という閉鎖空間であるがために、自分と同じ高信頼社会の人間とだけ付き合えばよく、低信頼社会の人達と接触するチャンスが極端に少なかった事も大きく関係していると思います。
よそ者をだましたり裏切ったりすることが珍しくない低信頼社会型の人間が日本に沢山いれば、当然、日本人全体が他人を強く警戒したり疑り深くなったりするでしょうが、それがエスカレートすると裏切り合戦となります。
「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉どおり、こうなると高信頼社会は破壊されてしまいます。
しかし日本が島国であったがために、低信頼社会型の人間とつきあわなければならない機会はそう多くはありませんでした。
こうして日本は、アジアでも珍しい高信頼社会になったのではないかと思います。
日本が高信頼社会であったことは、アジアで唯一19世紀に近代化を成功させ、20世紀に世界第二位の経済大国となった大きな理由の一つです。
日本が高信頼社会で、法や契約といった様々な約束事が良く守られるということは、治安や正常な取引を維持するコストが非常に安いことを意味します。
貸したお金やツケにした代金がスムースに回収できれば、回収できなくなった場合の損失を穴埋めするために準備しておくお金が少なくて済みます。 (簿記で言うところの貸し倒れ引当金ですね)
その分、別のお客にお金を貸したり新しい商品を仕入れたりすることに、お金を回す事ができます。
そして信用・掛けで商売できれば、手持ち資金よりはるかに額の大きい取引を成立させることができます。
経済犯罪が少なければ、社会がその分の警察官とその給料を負担する必要がなくなります。
コストが安いと言う意味は例えばそういうことです。
また日本がもとから高信頼社会であったために、欧米で発達した信用に基礎を置く近代資本主義システムや法治主義をすんなりと吸収できました。
しかし、日本が高信頼社会であったということには、プラス面だけではなく、マイナス面もあります。
それはいったい何でしょうか?
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