第10回 近代日本の対朝鮮外交 (最終回)
- 2005/05/19(木) 22:10:40
(全8回にわたって、朝鮮の開国から日韓併合にいたるまでの、日本の対朝鮮外交をみてきた。
その間、日本の一貫した戦略は、ロシアなど列強による朝鮮半島の植民地化を防止し、独立を維持させて、それによって日本の独立と安全を守るというものであった。
そのために、日清・日露の両戦争を日本は戦い、20万人の死傷者の血の犠牲と当時の金額で約22億円の戦費をもって、朝鮮の独立を守った。
しかし、国力を充実させ自力で独立国となれるチャンスを、朝鮮は日本から何度もプレゼントされながら、
朝鮮による、西欧近代文明とそれをとりいれ明治維新をなしとげた日本に対する蔑視、国際社会の現実への無理解、私利私欲に目がくらんで自らの利益のために朝鮮の独立と近代化を売り払う朝鮮のリーダー達が原因となって、そのチャンスをことごとくドブに捨てた。
当時は、自力で独立を維持する能力の無い国が存続して”真空地帯”を形成するようなことが許されない帝国主義の時代である点が、現代世界と決定的に違う。
そして「”真空地帯”が少しでもできれば、すぐさま他の強国が侵略して、それを埋めようとする」という力学が支配する世界であったのだ。
多くの日本人はこの理解が決定的に不足している。
もはや日本のリーダー達に残された選択肢は、あくまでも朝鮮の自主性に任せ<=それはロシアなど列強の植民地化を意味する>その結果、朝鮮とともに日本も独立を失い、帝国主義列強の植民地となって彼らに隷属するか、
日本が朝鮮の自主独立を踏みにじっても、日本の独立を守るかの二つに一つだった。
そして明治の指導者たちの決断は後者だったのだ。
安全な現代から過去を裁いて「朝鮮という他者を犠牲にして、日本が助かろうとするなんて」と非難する人がいるかもしれない。
もちろん現代の価値観からすれば、他国を併合して独立を奪うというのは許されないし、日韓併合が正しかったとは言えない。
しかし、例えば暗殺者集団につかまって「Aというヤツを暗殺して来い。もし失敗したら死ぬのはお前だ」と脅迫されて、「他人を犠牲にしてまで、自分が助かろうとは思わない」と自らの死を選ぶ勇気のある人間がこの世に何人いるだろうか?
そんな我々が、軽々しく明治日本を裁くことができるだろうか?
「歴史にifは無い」とはよく言われるし、意味の無い仮定かもしれないが、もし日本の独立が保障されるのであれば、日本が朝鮮半島情勢に介入して買わなくてもよい恨みをあえて買う必要は無かったと思われる。
その場合は”露清戦争”が勃発するかして、朝鮮はロシアの植民地になっていた可能性が高い。
ロシア領”コレーツ”では、”野蛮な漢字”は廃止されてБЖИなどのキリル文字に取って代わられ、人々は儒教からロシア正教会に改宗の上、アレクサンドル・キムとかイワン・パクのように改名していたかもしれない。
現代になっても朝鮮半島全体が、北朝鮮のような貧しい途上国レベルにとどまっていた可能性も高いだろう...。
韓国の歴史教育は、「古代より先進国で、後進国の日本に援助してきた朝鮮半島が、当初から侵略の意図を持っていた日本によって併合され、その収奪の結果、韓国は後進国になったのだ。だから日韓併合さえなかったら韓国は自力で近代化できたのだ。」という荒唐無稽なフィクションを韓国の子供たちにふきこんでいるが、
それが事実無根・夜郎自大・負け惜しみもいいところであることが、このシリーズでおわかりいただけたと思う。
さらに韓国側は、日本があたかも経済的収奪のために韓国を侵略したかのように言っているが、
1934年(昭和9年)までに”植民地統治”に要した費用は、日清・日露両戦争や韓国駐留軍の維持などに当時の金額で約60億円、
しかし、”植民地統治”で得た収益は20億円しかなく、ロシアと戦って国家滅亡もありうる一か八かの戦争をしたわりには大赤字だった。 よって韓国側の主張になんら根拠はない。
日露戦争統計
韓国がそのような歴史教育を改めない限り、歴史観を共有するなんてことは不可能だろう。
日韓併合後の日本による韓国統治であるが、産業・交通・エネルギーインフラ整備に官民の資本を投下し、韓国の近代化に尽力したことは否定できない事実である。
それはもちろん、日本の国益のためもあって行われたのであり、「だから日韓併合が正しかったのだ」とか「韓国人は感謝すべきだ」とは思わない。
しかし韓国の近代化に日本が貢献したという事実が消えるわけではない。
また、列強の中でも日本自身が後進的な貧しい工業国であったので、韓国統治に伴う失敗・悲劇はあったと思う。
それについては、1965年の日韓基本条約で、日本の半島における財産(現在の価値に換算して約17兆円)放棄と5億ドルの経済援助をもって、両国合意のもとに和解が成立している事実を忘れるべきではない。
最後に、日本の対朝鮮外交の歴史から教訓を導き出すとすれば、
自由と独立は断じて与えられるものではない。
それは絶えず守らねばならない権利であり、言葉や抗議だけでは決して守ることができないものである。
自由と独立は手に武器を持ってはじめて得られるものである。
<スイス政府編・民間防衛より>
ということであろう。
韓国ではしばしば、日本が今にも韓国侵略をはじめるかのような主張をして、集団ヒステリー状態になったり、一部の日本人もそれを真に受けて大騒ぎしたりするが、日清・日露戦争や日韓併合の正しい因果関係を理解して、歴史の教訓を正しく学んでいないからそうなるのである。
日本が再び日韓併合をおこなうようなことは、まずありえない。
それは、戦前と違って、韓国がかなりの水準の軍事力を保有しているからであり、たとえ韓国が反日国家に征服されたとしても、現代では日本の安全保障が死活的に危険にさらされるということがない。
よって日本が朝鮮半島を守るために反日国家と戦い、日韓併合を行う必要性がみじんも無いからである。)
これで第1部を終了とする。
第9回 近代日本の対朝鮮外交 (その8)
- 2005/05/19(木) 22:08:25
日露戦争になんとか”勝利”した日本は、韓国の保護国化をめざした。
日露戦争中の1904年(明治37年)8月、日本は韓国と第一次日韓協約を締結し、外交顧問スチーブンスと財政顧問の目賀田を送り込んだ。 同時に韓国が外国と条約を締結するときは、日本と相談することも定められた。
(韓国皇帝・高宗が、ロシアのような帝国主義列強に韓国の領土の租借を認め、森林や鉱山の利権を譲渡したことによって、韓国および日本の安全が脅かされた。
また高宗が、韓国の財政が逼迫しているにもかかわらず、王室費の無駄使いを改めなかったことも、韓国の自立を妨げていた。
だから日本としては、外交・財政顧問を派遣して韓国を保護国とし、これらの愚行を止めさせる必要があった。)
しかし、スチーブンスら顧問に高宗や韓国政府は従わず、しかも高宗が、日本が戦争をしている当の相手のロシアに密使を送っていたことが発覚した。
日露戦争中の1905年(明治38年)3月に発覚した、上海にいたデシノ・ロシア軍少将に届けられた密書には、高宗がロシア皇帝に日本軍を駆逐するよう懇願する内容が書かれていた。
日本側は高宗を問い詰めたが、「密使はニセモノである」と否定した。
(これ以後、高宗は米・仏・英にも密使を派遣し、発覚するたびに平然とシラをきり、あるいは他者に責任を押し付けた。)
高宗の”密使外交”と改革拒否に不信感を抱いた日本は、韓国の外交権を制限することを決断した。
1905年(明治38年)11月伊藤博文大使を韓国に派遣し、閣議を開催して韓国側を説得させ、第二次日韓協約を締結した。
(韓国皇帝が”外交”と称して自国を切り売りする”権利”、行財政改革を拒否する”権利”を日本によって奪われると、高宗は密使を列強に派遣して、それらの”権利”を取り戻そうとした。だから日本は韓国の外交権を奪う必要があったのである。
第二次日韓協約締結時の閣議で、李完用学部大臣も「従来わが国の外交なるものは変幻極まりなく、その結果日本は前後二回の大戦争<日清・日露戦争のこと>に従事し、多大の犠牲を供して、ようやく今日における韓国の地位を保全したるもの...」と認めた上で、
「韓国の外交によって東洋の平和を危機に陥れてはならない」として、韓国の外交を日本が監督することについて同意している。
ただ、韓国に派遣された伊藤は、「韓国の外交については日本が監督する。 そうすることによって、韓国政府は内政への専念とそれによる強国化が可能になる。 そのようにすれば、日本と同じように、韓国が自分の力で独立を維持できるようになるだろう。」と述べている。
韓国では日韓併合の張本人のように誤解されている伊藤博文だが、彼は日露戦争で賠償金も取れず、あまりにも多額の戦費がかかったため、「日本に半島統治の余力なし」として日韓併合には反対だったのは有名である。
このとき、いわゆる”義兵闘争”が勃発するが、韓国の歴史教科書の記述のように「民衆が日本の侵略に対して立ちあがった」というより、「皇帝の民衆を搾取する権利を日本から取り戻すために、民衆自身が日本や韓国政府の改革派閣僚を攻撃した」と言ったほうが正確である。
その意味で当時の韓国民衆の無知蒙昧さは度し難い。
また、韓国の歴史教育で「列強の侵略に立ち向かった」と教えられる、徐載弼の”独立協会”を弾圧したのは、ほかならぬ高宗であった。
みずからの絶対王政の維持をもくろんでいた高宗は、近代的な立憲君主制による韓国の独立をめざしていた”独立協会”を危険な存在とみなし、そのメンバーを抹殺し、言論・思想の自由を奪ったのだった。
私利私欲に目がくらんだ暗愚な指導者の存在。 この事一つとってみても、韓国が独立を失った原因がわかろうというものだ。)
1907年(明治40年)6月、高宗はまたもや”密使外交”を復活させ、第二回ハーグ平和会議において、日本の韓国に対する干渉に抗議した。しかし、その抗議は他の国々に全く相手にされなかった。(ハーグ密使事件)
高宗に対して、忍耐の限界に達した伊藤博文統監と韓国の内閣は、高宗を退位させ、実子の純宗を即位させた。
そして7月に第三次日韓協約を締結して、日本は韓国の内政に強く介入するようになった。
一方、日本による韓国の保護国化と平行して、日露戦争中の1905年(明治38年)の日英同盟協約改定、アメリカのタフト陸軍長官と交わした覚書、いわゆる桂-タフト協定をかわきりに、その2年後に締結された、日仏協約・日露協約などで、日本は韓国を保護国とすることについて国際社会からの同意をとりつけた。
日本による韓国の保護国化がすすむにつれて、山県有朋や寺内正毅ら軍部は日韓併合を主張したが、伊藤博文や曽禰荒助など歴代統監はあくまでも併合に反対であった。
しかし韓国側の無理解で遅々として進まない改革にお手上げの状態となった伊藤は、1909年(明治42年)6月に韓国統監を辞して帰国後、桂太郎首相や山県の「日韓併合やむなし」という説得を受け入れた。 それでも日韓併合実施は「今後5~6年様子を見て」ということになった。
ところが同年10月ハルビンで伊藤博文が安重根に暗殺された。
皮肉にも韓国人によって日韓併合慎重派の重鎮が倒されたことで、1910年(明治43年)8月日韓併合が行われた。
(「伊藤が日韓併合推進の張本人」という安重根の単なる妄想から、明治日本は偉大な政治家を失った。
第二次日韓協約の時の”義兵”といい、安重根といい、彼らの無知蒙昧さは全く度しがたい)
第8回 近代日本の対朝鮮外交 (その7)
- 2005/05/15(日) 23:56:03
日清戦争の勝利によって、清の朝鮮半島における影響力を排除した日本は、朝鮮の内政に介入して改革を進めようとした。
当時朝鮮にいたイギリス人旅行家、イザベラ・バードをして「朝鮮には二つの階級しか存在しない。盗む側(王族・両班貴族)と盗まれる側(平民・奴隷)だ。」といわしめた、朝鮮の後進的な社会の改革に着手した日本だったが、
特権を守ろうとする国王・高宗と閔妃政権側の根強い抵抗に改革が思うように進まなかった。
しかも閔妃政権は駐朝ロシア公使ウェーベルに接近して、改革派高官の追放をはかった。
これらの動きに焦った、三浦梧楼公使を中心とする在朝日本公使館の急進派は、朝鮮守旧派の中心人物・閔妃の暗殺とクーデターを企てた。
閔妃の政敵で高宗の実父・大院君もこの動きに協力し、1895年(明治28年)10月クーデターは決行され、閔妃も暗殺された。(閔妃暗殺事件)
(閔妃は朝鮮の改革にことごとく反対し、日本・清・ロシアと同盟相手をころころと変え、愚かにも清やロシアに、朝鮮半島介入のきっかけさえ与えた。
その意味で日本にとっては正に”不倶戴天の敵”であったが、暗殺という手段はいかにも短慮・拙劣ではなかっただろうか。
現代から過去を裁こうとは思わないが、もっと他にやりようが無かったのかと思うと残念でならない)
閔妃暗殺事件のあと、ロシア軍・アメリカ軍水兵と朝鮮親露派の李範晋・元農商工部大臣が金弘集首相暗殺を企てたが、失敗に終わった。(春生門事件)
(おそらく親露派の閔妃暗殺で影響力後退を恐れたロシア側が、親日派の金首相の暗殺を謀ったものと思われる)
親露・守旧派の後退によって、第三次金弘集政権は一連の国政改革を断行、翌1896年(明治29年)、約1200年ぶりに朝鮮独自の元号”建陽”をたてて太陽暦を採用した。
(中国皇帝の暦の使用を停止したことは、中国からの独立を象徴する出来事であった)
閔妃暗殺と国政改革に反発した高宗は同年2月、ロシア軍水兵の護衛のもと、密かに王宮を脱出して在朝ロシア公使館に逃れ、以後1年間にわたりそこで政務をつかさどった。これを露館播遷という。
高宗はロシア公使館から、金弘集首相をはじめとする改革派を抹殺するよう命令を出し、それに呼応した警察・民衆が暴動を起こして金首相以下改革派要人と日本人を虐殺した。
これに伴い、朝鮮を近代的な立憲君主国とするべく開始された日本の改革は、ことごとく白紙に戻され、高宗は専制君主の地位を取り戻した。
また高宗は、朝鮮領内の鴨緑江・豆満江沿岸地域の木材伐採権と鏡城・鐘城鉱山の採掘権をロシアに与え、ロシアはそれら権益の保護と称し、ロシア軍を駐留させた。
一方、清の李鴻章とロシアのロバノフ外相は、同年6月日本を仮想敵とし、日本がロシア・清・朝鮮いずれかを攻撃した場合、露清間の相互援助を約束した、”露朝秘密協定”を締結した。
こうして露・清・朝の連携が強まることで、日本の半島における影響力は後退しつつあった。
(閔妃を暗殺された高宗には深く同情するが、だからといって朝鮮の近代化を逆行させても良いということにはならない。
そもそも日本が朝鮮を近代化させ独立を維持できるように努力してきたのも、朝鮮が欧米列強、特にロシアの植民地にされないためであった。
しかし、朝鮮国王みずからロシアのワナにかかりに行くようなこの行動は、朝鮮開国から日清戦争までの日本の苦労が、まったくの無駄となりかねないものであった。
この時、駐朝ロシア公使ウェーベルは高宗をかくまいつつ、国政改革を逆行させる彼の試みをことごとく黙認した。
近代化政策がストップし、朝鮮が後進的な専制王朝にとどまってくれた方が、保護国にするにしろ、植民地化するにしろロシアにとって何かと都合がよかったからであろう)
1897年(明治30年)10月改革派を一掃した高宗は王宮に戻ると、みずからを皇帝、国号を大韓帝国と改めた。
(日本が日清戦争の勝利によって得た、朝鮮の清<中国>からの独立は、ここに名実ともに実現することとなった)
1900年(明治33年)清で排外主義をとなえる義和団という宗教結社が武装蜂起し、日本とドイツの外交官を殺害すると、清国政府は勝ち馬に乗れとばかり、列強に宣戦布告した。
しかしロシアを主力とする列強諸国軍にたちまち返り討ちに会い、その結果満州地方がロシア軍によって占領された。
同年3月には対馬海峡に面する朝鮮半島南部の馬山浦をロシアが租借する協定が露・韓の間で結ばれる。
(馬山浦にロシアの軍港ができれば、ウラジオストク-馬山-旅順を連携させることによって、日本海・対馬海峡・黄海はロシアの内海となりかねない。)
ユーラシア大陸各地でロシアと勢力圏争いをしていたイギリスは、これらの動きを憂慮、ロシアの南下を恐れる日本と利害が一致し、1902年(明治35年)日英同盟協約が締結された。
日本・イギリスは、日英同盟をバックに満州占領を続けるロシアに抗議し、ロシアは清と満州からの段階的な撤兵を約束する”露清満州還付条約”を締結した。 しかし撤兵の約束は守られず、ロシアは満州占領を継続する。
さらにロシアは1903年(明治36年)朝鮮半島のつけね、鴨緑江河口にある龍岩浦を租借した。
この間、日本の対露外交の基調となっていたものは”満韓交換”論であった。
これは、日本は朝鮮半島をロシアは満州を勢力圏とし、両国はお互いの勢力圏内での権益を認めあうという形で、日本の安全を確保しようというものであったが、
ロシアは、「満州はロシアの勢力圏、朝鮮半島は中立化すべきである」と”満韓交換”をつっぱねた。
(ロシアの”韓国中立化”提案は、実質的に「日本は朝鮮半島にいっさいの軍事基地を持ってはならないが、ロシアは半島南部の馬山浦に軍港を開き、対馬海峡の自由通航権を日本に要求する」というもので、”中立化”とは名ばかりのものであった。
つまりロシアの立場は「満州はロシアのものであり譲れない、しかし日本は朝鮮から手を引け」ということであり、日本としては到底受け入れられないものであった)
これをみた日本は日露開戦は不可避と判断、1904年(明治37年)1月ロシアの満州からの撤兵を求める最後通牒をつきつけたが、ロシアからは回答が無く、同年2月ついに日露戦争がはじまった。
日本軍は多大な犠牲を払いながらロシア軍の拠点、旅順・奉天を陥れ、1905年(明治38年)5月日本海でロシアのバルチック艦隊を撃破し、東アジアにおける軍事的優勢を確保した。
しかし日本は国力の疲弊から、ロシアは第一革命勃発によって戦争続行が困難になりつつあった。
そこで両国はアメリカの仲介で同年9月、ポーツマス講和条約を締結し、ロシアは1.日本の韓国に対する優越権 2.ロシアが保有していた南満州の権益譲渡 3.南部樺太割譲などを認めた。
(日本にとって日露戦争の目的は、日清戦争と同様、日本の安全と独立を守るための緩衝地帯として朝鮮半島を確保することにあった。
一方ロシアにとっては、植民地化をめざしていた満州の確保が第一点、そして戦勝のあかつきには、朝鮮半島と日本からの割譲地が、新たにロシア植民地に加わるといったところだろうか。
もっともロシアは、まさか東洋の弱小国の”マカーキ<猿>”が”偉大なロシア”に、本当に戦いを挑んでくるとは予想していなかったことだろう。
日本とロシアの戦力を単純比較をしてみると、陸軍は日本が約20万人に対し、ロシアは約300万人、戦艦は6隻対22隻、
国力は人口4600万人 対 1億3000万人、国家歳入が2億5000万円 対 20億円であった。
明治政府の首脳達は、負ければ日本の破滅が確実な、この日露戦争開戦の決断がよくできたものだと感服してしまう。
ロシアの後進性を見切って、勝てると踏んだ上での開戦決断だったのか、それともあの時日本はまだ若く、怖いもの知らずだったのか。
韓国側は、例によって日露戦争を「日本が韓国を植民地化するための戦争」としているが、全く説得力が無い。
単純に経済的な収奪のために朝鮮半島を征服しようとして、自らの破滅もあり得る一か八かの戦争を、日本が自分の数倍もの軍事大国・ロシアに挑むのは、日本にとって割に合わなすぎる。 まったくのハイリスク・ローリターンである。
やはりロシアによる朝鮮半島の軍事利用の可能性が、日本の安全を死活的に脅かしたからこそ、日本は日露戦争という危険な賭けに出たのである)
第7回 近代日本の対朝鮮外交 (その6)
- 2005/05/10(火) 21:37:35
壬午軍乱と甲申事変の失敗で、政治・経済改革のチャンスをつぶされ、停滞をつづける李朝朝鮮。
ロシアやイギリスなど帝国主義列強の朝鮮半島に対する影響力も日増しに強まっていた。
朝鮮の改革がいきづまりをみせるなか、閔妃と事大党政権による搾取圧政と貧困、開国に伴う外国商人との競争の敗北を原因として民衆は不満を爆発させた。
彼らは東学という新興宗教の指導者、全(王+奉)準らにひきいられ、1894年(明治27年)国政改革を要求して大反乱をおこした。
これを甲午農民戦争あるいは東学党の乱という。
東学党による民衆蜂起を独力で鎮圧する力のなかった閔妃と事大党政権は清に援軍を要請したが、これに呼応して日本も朝鮮に出兵し、
両国は半島を舞台に、朝鮮の地位(独立国を主張する日本と、あくまでも自分の属国であると主張する清)や政治改革の方針の食い違いから対立を深めていった。
日本はついに実力で清の朝鮮に対する影響力を排除する決断を下し、同年8月清に対し宣戦を布告して日清戦争が開始された。
陸海軍の近代化を徹底してすすめていた日本に対し、”中体西用論”をかかげ中途半端な改革にとどまった清軍は、陸・海で敗退をつづけた。
(規律の無い清軍は朝鮮への行軍の途中、奉天<現・瀋陽>や遼陽といった自国内の都市でさえ略奪のかぎりをつくした。これでは勝てる戦争も勝てまい)
旅順要塞につづき、威海衛も陥落し、日本軍によって北京のノド元にナイフをつきつけられる形となった清は降伏。 1895年(明治28年)4月17日、下関で講和条約が結ばれた。
(両国にとって日清戦争の目的は大きく異なっていた。
このころ、清は”属国”・”朝貢国”を欧米列強に次々と奪われていた。
1876年にコーカンド・ハン国が併合されたのを最後に西トルキスタンをロシアに制圧され、1885年に清仏戦争に敗れてベトナムの宗主権を失い、1886年までの3度に及ぶ戦争でイギリスがビルマを手中にした。
清にとって日清戦争とは、約250年続いてきた属国・朝鮮に対する宗主権を守るための戦争であり、それは同時に”ナマイキな蛮族”である日本人を叩きのめし、二千年以上続いた”華夷秩序”を守るための戦いであった。朝鮮はその最後の牙城ともいえるものだったのだ。
そのために、清は朝鮮の近代化自体には関心が低く、むしろ清自身が近代化失敗のため欧米列強に独立を脅かされているありさまだった。
清の朝鮮支配がそのまま続いていれば、欧米による侵略で共倒れの可能性が高かったといえよう。
中国の国定歴史教科書は日清戦争を『日本の中国に対する侵略戦争』と決めつけているが、ウソもいいところで、
日清戦争の時代背景をろくに説明もせずに、いきなり中国艦隊を日本側が攻撃したところから子供達に教える中国の歴史教育のやり方は、卑怯千万である。
一方、日本にとってこの戦争の目的は、清の朝鮮に対する影響力を排除して、その意思も能力も無い朝鮮に代わって日本が主導権を握って朝鮮半島の近代化と独立保持を達成し、欧米列強<特にロシア>から日本の独立を守るために半島を緩衝地帯とすることであった。
中国政府は「1950年の朝鮮戦争は、アメリカの中国に対する侵略戦争である」と子供達に教えているが、その根拠は「中国の緩衝地帯である北朝鮮がアメリカに脅かされたため」としている。
その論理で戦争が正当化できるならば、中国は日清戦争における日本を批判できまい。中国お得意のダブルスタンダードである)
この”下関条約”では、1.朝鮮の清からの独立 2.清は賠償として2億両を日本へ支払うこと(当時の日本円に換算して3億1千万円) 3.遼東半島と台湾などを日本へ割譲すること などが定められた。
しかし遼東半島の利権を狙っていたロシアがドイツ・フランスをさそって同半島の返還を日本に迫った。(三国干渉)
「列強三カ国を敵にまわしては勝ち目が無い」とみた日本は、遼東半島を清に返還したが、すぐさまロシアが同半島を租借し、日本国民の間に激しい反露感情がわきあがった。
清の影響力が半島から排除された日清戦争中の1895年1月、さっそく駐朝鮮公使・井上馨の主導により朝鮮の内政・外交改革が着手された。
改革案は、朝鮮は公式に清からの独立を宣言すること、官僚の腐敗をとりしまり、奴隷制度を廃止して公正な社会をつくること、国王や王妃が国政に介入するのを禁止し、議会(中枢院)を設置して近代的な立憲君主制を目指す第一歩とすることなどを骨子としていた。
しかし国王・高宗は特権が奪われることを嫌って、仮病を使って公務を休み、改革を事実上拒否した。
それでも井上は嫌がる高宗に、朝鮮歴代国王の宗廟前で朝鮮の独立と内政改革を誓うよう断固要求し、ついに高宗は北漢山の宗廟前で、王族と百官をしたがえて、朝鮮の改革をうたった国政改革のための”洪範14ヶ条”の実施を誓った。 これを乙未改革という。
(韓国の歴史教科書では乙未改革は、朝鮮が自力で行ったように記述されているが、まったくのウソである。
朝鮮が自力でなしとげられなかった中国からの独立、官僚腐敗の撲滅、奴隷制度の廃止などが日本によって達成されたのが、よほどくやしいのだろうか。
また高宗が宗廟前で百官をしたがえて国政改革を誓うというのは、明治天皇が百官をしたがえて神々に近代日本の施政方針を誓った、五箇条の御誓文と同じ形式である。
このような日本の朝鮮内政への介入を、韓国側は本格的な植民地化・日韓併合の第一歩と主張しているが、これも根拠が無い。
植民地統治成功の原則は、現地社会を未開のままにしてほうっておく愚民化政策である。
しかし日本のやろうとしたことは全く逆で、奴隷を開放して身分差別を撤廃し、朝鮮を近代的な立憲君主国にしようとする試みだった。)
この改革によって日本に亡命していた、かつての独立党の指導者の一人、朴泳孝が内相として朝鮮政府に復帰した。
しかし、改革派の朴泳孝と守旧派の高宗・閔妃とが激しく対立し、朴泳孝は日本に再亡命を余儀なくされた。 これによって朝鮮政府から改革派がつぎつぎと追放され、閔妃派を中心とする守旧派が返り咲いた。
この反改革の動きは、ロシアの三国干渉に屈した日本をみた高宗・閔妃が「日本など恐れる必要無し」とばかりに見下し、ロシアに接近する動きを見せたことも背景となっていた。
(日本側は専制君主であった朝鮮国王から立法権や財政をかたむかせている王室費をとりあげようとしたが、高宗・閔妃はあくまでも特権の維持に固執した。 そのために改革はまたしても挫折したのである。
このとき死傷者13000人以上、戦費2億円以上(当時の国家予算2年分)という日清戦争で費やした日本の血の犠牲が、まったくの水の泡となりつつあったのである)